写真提供 宮澤泰雄氏

倉井天満宮(天神社)

鎮座地 長野県上水内郡飯綱町倉井字天神山

御祭神 菅原大神

例 祭  10月3日(例祭宵宮)、4日(例祭)

御由緒 長保年間、僧恵信が行脚のおり逗留、この地の名を土地の人に問うと御射山と答えた。神に由縁ありと、ここに壱社を建立せんと土地の人に議り石をもとめ、自ら菅公の肖像を彫刻した。また左右扉石に随神を刻し奉祠したと伝える。
寛永年間、領主松平遠江守、尊信篤く飯山城内に菅公神像を移そうと数十人で運んでいると、村内の鳥の山という地で突然神像が重くなり進むことができなくなる。そこで人手を増したが、なおも同じであった。帰ろうとすると神像は軽くなった。故に止むを得ず旧社に復しその扉を城内に勧請し扉天神と称し尊崇する。後摂州尼ヶ崎へ国換の折たずさえられたと伝える。(その後、扉は転々と廻り現在は播州姫路にある由。)

三水村指定文化財(昭和62年登録)
一、倉井天満宮 相撲四本柱土俵免許(文久元年)
一、倉井天満宮 相撲太鼓櫓免許(文久元年)

倉井天満宮の相撲
倉井天満宮の相撲は近郷にも聞えた有名なものであった。文久元年(1861)に相撲の興行権である「四本柱土俵免許」を受けて以来続いてきたと思われる。昭和12年の日華事変を境に中断、今日に至る。天満宮境内の土俵跡には今でも土が高く盛ってあり当時の名残をとどめている。力士に獅子ヶ洞の名が見える他、明治28年帳簿には二十山(東京・二十山部屋第七代親方であろう)と10人の力士の名が見える。

宮司 武井芳久

参 考
一、『三水村誌』・三水村誌編纂委員会・昭和55年
一、『上水内郡神社誌』・上水内郡神社編纂委員会・昭和38年
一、『倉井壮友について』『倉井壮友のあゆみ』『倉井天神社相撲免許所蔵の移り変わり』・高野 清


 

 
写真提供 倉井公民館