写真提供 宮澤泰雄氏

倉  井  神  社

鎮座地 長野県上水内郡飯綱町大字倉井字宮平

御祭神 健御名方富命彦神別神

例 祭  9月22日(例祭宵宮)、23日(例祭)

御由緒 倉井(クライ)の地名は古代「座居」(クライ)であり、「神の居わす場所」の意味がある。
「健御名方富命彦神別神」(たけみなかたとみのみことひこがみわけのかみ)が久しく留居されし由縁と伝える。
往古、現在の神社南面平地は湖で風光絶景であったという。
その昔、神社社殿は背後山にあった。移転数回の後現在地に建てられたが、弘化4年(1847)3月の地震(通称、善光寺大地震)で壊れ翌嘉永元年(1848)に現在の社殿が再建された。
明治42年3月、政府の政策により付近神社を合祀。(後に記述)
諏訪大社上社に祀られる「建御名方神」(たけみなかたのかみ)が父神。
建御名方神は出雲大社に祀られる大国主神の息子神で、共にこの地上を治めており、平和に繁栄していたが天照大神が国譲りを強いた。
力持ちの神として武勇を誇っていた建御名方神は、抵抗したが交渉に負け、諏訪の地に移り、古くからの神を征服、やがて融和し、開拓の神、風の神、水の神、農耕の神となる。
狩猟の神、戦の神として源頼朝、北条、武田など幕府、有力武家も熱心に信仰した。「御射山祭」には多くの武将が参集し、狩猟神事を競い戦術、武芸を披露した。
諏訪大社には蛙狩神事や、鹿を供える酉の祭りなど特異な祭りがある。後に渡来した仏教思想の影響で、殺生は悪、肉食は禁忌という意識があるが、獲物の一部を神に捧げ恵みを感謝し、次の獲物を願うのは、むしろ古来よりの自然な信仰であった。殺生を禁ずる仏教思想の中で、武芸を競う狩猟を起源とする武士団と、狩猟民、山の民は諏訪神を各地に勧請し罪科消滅の拠り所とした。諏訪神は狩猟、肉食は古来よりの正当な伝統であるとし、鹿食免、鹿食箸という「免許証」を出して信仰者を安堵させた。このお札があれば狩猟ができ、箸を使えば肉食をしても良いというものであったので、更に信仰圏は拡まった。
結果、現在全国八万の神社の内、諏訪社が約五千社を数える。
倉井神社の起源は、住民の祖先が諏訪神の子孫で祖神として祀ったのか、或は山の民として狩猟御免の御神徳を授かりたいということなどが勧請の起源ではなかろうか。

合 祀(明治42年3月)
一、大明神・諏訪社「建南方富命」(たけみなかたとみのみこと)健御名方神と同じ。
一、御射山・御射山社「建南方刀美命」健御名方神と同じ。
一、今田・伊勢社「大日霊神」天照大神と同じ。
一、風坂・伊勢社「大日霊神」
一、三ツ屋・稲荷社「保食神」食物の神。
一、上手・稲荷社「倉稲魂神」食物の神。
一、釜渕・山神社「大山祇神」山の神。
一、釜渕・佐軍神「田心姫命」海の神、水の神。
一、大原・秋葉社「香雷命秋葉大神」火の神。
一、一ツ屋・秋葉社「軻遇突智命」火の神。
一、八幡原・八幡社「誉田別命」応神天皇、八幡神。  


宮司 武井芳久
禰宜 武井祥憲

参 考
一、『三水村誌』・三水村誌編纂委員会・昭和55年
一、『上水内郡神社誌』・上水内郡神社編纂委員会・昭和38年
一、『倉井神社について』・武井芳久

 

 

 
写真提供 倉井公民館