豆の木 No.12 2008年 一人一句鑑賞    田中空音


夕暮がからだにあふれ鮭のぼる      大石雄鬼

 気持ちのいい句である。頭のどこかが気持ちいいとか、心のどこかに響いてくるというのではなく、もう体全体そのものが気持ちいい。

木の実なんだかいらなくなって握っている   こしのゆみこ

 この味、何と表現したらいいだろうか。生きてあることの味とでもいうか。それもギラギラとした青春を通りすぎて落ち着いてきた人の生の味ではないか。ふと気付くと、今までしがみついてきたものにそれほど執着はない、執着はないが捨ててしまうわけでもなく依然として持っている、という状態。強く握りしめるのではなくふわっと握っている。子ども時代にもこういうことはあるが、それが意識されているということに大きな違いがある。この握っているものが俳句だとしたら、この握り方が飄々と味のある俳句を作るコツかもしれないなどと思った。深い感覚の冴えは「ヌード」の句が一番に思う。

麻酔より醒めよ雲雀東風とならむ       近 恵

 熱い心情とさわやかな叙情が同居して句が厚い。短歌の良さと俳句の良さを合わせ持っているようでもある。作者の人間味をとても感じる一句である。

物売が家に来ており春の昼         齋藤朝比古

 何だか昭和の良き時代を思い出した。煎餅売りのおばさんが来て長居したり、引き売りの八百屋が縁側に腰掛けて話し込んだり、時には務所帰りだというゴム紐の押し売りが来たりと、とにかくそれなりに心が通う庶民の生活があった。春の昼が相応しい。

秋澄むや巻き貝にある黄金比        さいばら天気

 秋が澄んで、巻貝のあるような海辺に居るというだけで気持ちいい。大自然は神秘でもあるが秩序でもある。そこに理知のある人間が存在してくる、なお楽し。

青葡萄それからずんずんあるいた       高橋洋子

 「橙の花・・」「大きなひと・・」「月あいまいに・・」「水いろの・・」など取りたい句がたくさんあった。重くれてなく、かといって軽いだけでもなく、さらりと書いているようで味のある句達である。この「青葡萄」の句は、私の中の青春性を呼び覚ましてくれるような句である。気持ちがいい。

風船のうちがわに江戸どしゃぶりの       田島健一

 何だか江戸というものの匂いがしてくるようである。江戸というものにタイムスリップしていくような感じ。気がついてみるとそこは江戸で、どしゃぶりだったというような感じ。

腕時計はずせば草萌の湿り       月野ぽぽな

 とりあえず一句掲げてみたが、私にとっては殆どの句に感じるものがあり選ぶのが難しい。作者はアメリカ(ニューヨーク?)在住だと聞く。あの大都会に居てこの叙情性を持てるというのは驚きでさえある。この一句、自然との交感が懐かしい。「腕時計はずせば」というさりげない伏線が作者の真情に触れることができるような気持ちがして、とても魅せられる。

国家なんか恐れぬ妻の裸身かな       峠谷清広

 カーリー女神の姿が思い浮かんだ。言葉で説明するよりは写真を

 こういうものを思い浮かべるというのは、句にかなりの力があるからであろう。ちなみに下に踏みしだかれているのはカーリーの夫シヴァ神である。

口笛のさびしき玉蜀黍の花       中嶋憲武

 玉蜀黍の花(雄花)はその形態は地味であるが、私などのように田舎に住むものにとってはどこか生産性の象徴のような感じがしていたので、「さびしき」と言われると余計に作者のさびしさを感じてしまうのである。口笛もさびしい、玉蜀黍の花もさびしい、作者は孤独なのだろうか。孤独の叙情。

小鳥来る採血の針触れるとき       日高 玲

 「葉桜・・」や「鹿の子・・」のような句が私には素直に受け取れるのであるが、作者自身も題にしている句であるし、何かありそうな気がして鑑賞に挑戦してみた。
 「小鳥来る」と「採血の針触れるとき」は全く離れていて繋がりは有りそうにないとも思えるが、繋がりは〈日常〉ということではないか。嬉しいこともまた痛いこともある日常。そういう日常を明るく軽やかに眺めている雰囲気がある。

夕野分色あひちがふ五円玉        星 力馬

 この句もどこか日常を楽しんでいる風情である。ものへの気付きというものは軽い心でいないと出てこない。鬱のような重い心の状態だと、ものなんかどうでもよくなってしまう。五円玉の色が違っても、そんなの関係ねえ、という具合になってしまう。夕野分の中で五円玉の色の違いに気付いている作者は生を快活に楽しんでいるに違いない。

三日月の眼を持つ山羊が砂を蹴る      三宅やよい

 要するにそういう絵、あるいは映像、あるいは場面が印象的である。視覚的に鮮明な印象を与えられれば、それ以上の意味はいらないという説もある。あえて言えば、「三日月の眼を持つ山羊」と「砂を蹴る」という配合には俳諧性がある。

足首を浸して鮎の川となり      宮本佳世乃

 川に足首を浸している時間の経過が感じられる。いわゆる禅定というような状態。自分がそのものになってしまったような感覚。単に川ではなく「鮎の川」であるのが一層その禅定の感じを強めている。鮎が足首のあたりを泳いでいる、鮎は足首をすでに自然の一部とみなしている、というような景が見える。

青麦のすこし傾いで母の子です      室田洋子

 自分の子のことを詠むと思い込みがあって句があまくなるといわれるが、この句は一般性があるように思う。むしろ作者の子のこととして読まない方が味がある。この庶民性、この日常性、ペーソスさえも漂う。何とも親しみのある句である。

教室にメモの回りて星まつり       矢羽野智津子

 童話の一場面のような活き活きとした教室の様子がある。こんなに胸がわくわくするような教室が現在の学校にあるのだろうかと思い、もしかしたら中年のおばさんのカルチャー教室のようなものかもしれないと思ったりもする。なにしろ中年の女性は元気だからなあ。教室は夢を培うところである、という本質を思い出した。

白鳥のまへ湯冷してゐる心地       吉田悦花

 白鳥の前に佇んでいる作者の姿が見える。というか、読んでいる私自身が白鳥の前に佇んでいる気持ちになる。というか、最終的には白鳥だけが前に居て、あとは何かしらの心地がある。“心地“としての私が居る。“私“という現象の認識は多くの場面で“心地”として認識されるのではないか。この場合「湯冷してゐる心地」なのであるが、これは白鳥そのものの形容とも取れるような感じもある。白鳥と作者の“私”の間に共通する“心地”が流れている。

ヒヤシンス体育館の裏で会う       上野葉月

 友人あるいは恋人、あるいはヒヤシンスそのものに会ったとも取れる。ヒヤシンスの持つ雰囲気、そして体育館の裏の雰囲気、日常的なのであるが、どこかひんやりと秘密めいた、何か大切な逢瀬を連想する。

夜濯ぎの水につながるうす明り       遠藤 治

 日常の中に潜む非日常のうす明り、というような微妙な心理か。うすぼんやりとした希望のようなものか。このあいまいで微妙な心というものを書いている気がする。日常はあいまいである、というのはかなり真実に近いことかもしれない。そういう日常の微妙なところを書き取った句ではないか。

さうめんの流れ損ねのただよへり      太田うさぎ

 可笑しい。どうせわたしはそうめんの流れ損ねみたいなもんですよ。そんなことは百も承知。こうなれば開き直ってぐでぐでとただよっていてやろうか。私もそうだし、俳人などという人種はみんなそうかも。

手花火に力士三人しやがみをり      岡田由希

 先頃の時津風部屋の死んだ若い力士のことなどが連想されてじんときた。まだ若いうちから部屋へ住み込みで入って厳しい稽古に明け暮れる。たまには逃げ出したくもなる。故郷が恋しくなることもある。大きい体の力士三人が小さな手花火囲んで何を思っているのだろうか。何を語っているのだろうか。

票田と言われる地帯猫の恋        小野裕三

 大都会の人口密集地。いろいろな政治的な野望や策略や駆け引きが熱病のように行われている。一方こちらも熱病のように恋猫たちがぎゃーぎゃーと恋に勤しんでいる。同じようなもんだという見方もできるし、仮面を被った人間社会と本能丸出しの動物の対比ともいえる。

弟より電話葉牡丹ひしめける       加茂 樹

 弟より電話があった。葉牡丹を眺めながらその電話を受けている。葉牡丹の葉はずいぶんとひしめいているなあなどと思いながら弟の話を聞いている。どこかしら弟の話自体が込み入ってひしめいているような感じさえ受ける。

菊焚けば芯から蒼き静寂かな       川田由美子

 「緑陰の真水・・」とどちらにしようかと思ったが、色彩感ということでこちらを頂いた。どちらの句も一人であるということの心地よさのようなものを感じる。一人ではあるが孤独というのではなく、自然と溶け合っている感じが瞑想的であり気持ちいい。この作家はしっかりと自己を見つめることができるという印象であり、それを詩的に表現する力があるという感じである。また娘さんの「寝相は悪く人生広く夏の雲」にとても感心しました。

御降の空やてけてけ跳ね太鼓       菊田一平

 朝青龍にかき回されたりことや、時津風部屋の不祥事などの醜いものが、最近の相撲界を賑わせたが、そういうごたごたは抜きにした、本来のあるいは昔ながらの、良き古き時代の、初場所の雰囲気を感じる。のんびりとしたある日本情趣である。
 実は私は朝青龍が好きなのではある。あのガッツ。あのハングリー。あの陰に籠らない感じ。