私のインド旅行(一つのマインドゲーム)

1  

 私のインド旅行は変な旅であった。私は何を見に、何を探しに、何の目的でインドに行ったのか。後日、私自信も人前でそれを言おうとすると、口ごもってしまって、一言でははっきりと言えないような旅であった。たとえば、私はボンベイヘ言ってもアジャンタ石窟を見て来なかったし、アグラヘ言っても有名なタージマハ-ル寺院を見なかった。これらは普通のインド旅行者は見逃すことのない場所である。また、宗教遍歴者が行うように、いわゆる聖者といわれる人も訪ねなかったし、寺院や道場にも多くは行かなかった。しかし、やはり私は旅をしたかったのだし、その場所はインドでなけれぱならなかった。
 インド、それは、生と死という存在の二つの相が二つながら、日常の生活の中に、チラチラ顔をのぞかせている国である。死のことを思わずして生きてゆけない国である。人間の生というものが、いかに一時的なものであるか、ということを実感しないでは、生きてゆけない国である。また、人間の精神の奥深さ、多様さというものが、これほど凄いものだということを思い知らされる国である。
 インド、インド、私は、この恐ろしくも甘い魅力に満ちた国に引き寄せられ、旅立った。
 私は怖かった。〈見たくない。しかし見なければならない。この心の奥底を見なけれぱならない。〉そうであった。私の旅のもう一つの、というよりただ一つの本当の目的は、自分自身の心をしっかりと見たい、ということだった。そして、その最も奥深い事実には従わなければならないということが怖かったのである。この頃の私は、絶対とか真理とかいう言葉が好きであった。と言うよりは、これらの言葉に魅入られた、言葉の方が私に取り付いた、と言った方が良いかもしれない。何故なら、この好きであるという意識の裏に、怖いとう感情が潜んでいたからである。
 とにもかくにも、この見たいという欲求と、見なければならないという義務感のいりまじった厳粛な気持ちで、私は旅立ったのであった。

2

 世界最大の物語の一つである、マハーバーラタにこういう話がある。ある時、死の神ヤマがユディシュティラ王に、この世で一番不思議な事は何か、と質間した。ユディシュティラ王は答えた。「日々たくさんの人々が死んで行く、けれど残ったほとんどの人は、自分は死なないと思っている。この事がこの世で一番不思議な事である。」
 日本の都会では、人間は死ぬものである、あるいは生命というものは死ぬものである、という実感を持つことがはなはだ少ない。スーパーマーケットではすべての食肉はきれいにパックされて売られているし、身近な人間の死さえも、煩雑な世事に邪魔されて、じっくりと味わう事ができない。
 ある暑い、暑くて周りの風景もゆらゆらと燃えているような昼下がり、私はベナレスのガンジス川の岸辺を、下流の方から沐浴場の方へと歩いて行った。あまり暑いので、私の頭もボーツとしていたのであるが、熱い砂地を踏みしめ踏みしめ歩いて行った。ふと見ると、ほんの五メートルぐらい先に、何やらが突っ立っていた。はじめは、人が数人立っているのかと思ったが、よく見ると、それは数羽の禿鷲であった。背は一メートル半ぐらいの黒い奴で、ただじっと何かを待つように立っているのであった。私は少し不気味に感じたが、彼らはそっとしておいて、更に上流の方へ歩いて行こうと思い、ふと彼らから目をそらしたとたん、あるものを見た。私の全身は堅くなってじっとそれを見つめた。〈人間の死体を、一匹の犬が食っている。〉それは紫色に水ぷくれした人問の死体であった。私はしぱらくの間その場所に釘付けにされてしまった。私はだんだん訳が分かってきた。〈つまり、人の死骸を腹をすかせた犬が食っている、更に禿鷲達が、犬の食い終わるのを待っているのである。〉
 それは善であるのか悪であるのか、私にはとうてい判断がつかなかったが、私はそれを事実としてしっかり受けとめようと思い、しぱらくの間みつめてから、また上流の方へ足を向けたのであった。更に三十メートルぐらいの上流で、一人の男が沐浴をし口をすすいでいたが、事実を事実として受けとめようという私の心は、その男を横目で見ながら上流の方へ歩みを進めたのであった。
 インド人にとって聖なる河であるガンガ、そのベナレスの岸辺には人生の縮図がある。岸辺に住む人はこの水で炊事をする。子供達は岸辺で遊び、糞尿をする。洗濯屋はこの水で洗濯をする。インド各地から多くの巡礼達が、この聖なる地の聖なる河で沐浴しようと集まって来る。死んだ人は岸辺の焼場で焼かれ、その灰は河に流される。金のない死人はそのまま河にほうり込まれる。まさに人生の縮図である。この大いなる河は、この人間達の様々なわざをすっかり受け入れて、実にゆうゆうと流れている。しかも過去に疫病の類は発生したことがないという。聖なる大河に合掌。

3

 十九世紀のインドの高僧ヴィヴェカーナンダは言った。「ブッダやキリストは第二級の聖者である。第一級の者は、世に教えを伝えるという欲もなく、森や山や洞窟の中で、一人真理を悟って肉体を捨てる。そして私の様な者は第三級の者である。」この言葉が私には怖かった。私はこの世で普通に生きながらえたいと思っていたし、世に悪ではなくむしろ善をなしたいと思っていた。にもかかわらず、第二級や第三級あるいは第四級の物になるべく特別な才能も神託も受けていなかったからである。そしてまた、普通のサラリーマンになるというのも、ただ世の慰み物に身を委ねつつ受け身の姿勢で生きてゆくだけに思えて耐えられなかった。また様々の政治運動や杜会運動も、単に相対的な善であり、実に頼りないものに見えたので、そういうものに飛び込んでゆく気にもなれなかった。
 そういう訳で、ヴィヴェカーナンダの言葉に依れば、私は第一級の聖者になるより他はないのではないかと思われたのであるが、この事が私には怖かったのである。
 しかし、私はわずかに期待していた。自分を完全に孤独にして、内側の声に耳を傾けていれば、いつか声がするのではないか、「汝はこの世で是をなせ。」という声が聞こえてくるのではないか、と。
 このように私は自分の内奥からの声が聞きたかったという理由と、インドの事はよく知らなければならない(今思えば私の心はインドの思想によって、かなり条件付けされていたのかも知れない。)という理由とで、かなりいろいろな場所を旅行しながらも、なるべく心を雑事から遠ざけようと努力したのであった。
 インドで汽車を使って少し遠くへ移動する時は、相当の忍耐を要する。一昼夜の旅行はざらで有るし、駅で待たされる時間や予約の時待たされる時間を含めると、かなり気を長く持たないとだめである。私の場合は三等車でないと気が済まなかったので、特に混んでいた時など、十数時間も荷物棚の上の片隅に、膝を曲げてじっとしていなければならないことも少なからずあった。(インドの汽車の荷物棚は板張りで広いのである。)
 アグラヘ行ったのも、こうした長い汽車旅行を避けるための中間地点として寄ったのであるが、夕ージマハールもついでに見ようかという思いもあるにはあったのである。さてアグラの駅につき、例によって安いホテルを見つけた。私はどういう訳か、安いホテルや安い食事を探す事に時間を費やすのを厭わなかった。安いホテルというのは素泊まりでニルピーから三ルピー、日本円で言えば六十円から百円ぐらいである。五ルピー六ルピーでは普通、七ルピーでは高いという感じが、いつの間にか身に付いていた。また食事は、一ルピー以下で安い、三ルピー以上では高かった。私のとった一番安い食事は、道端で老婆が量り売りしていた飯とカレーで、四十パイサ(十五円程)の食事であったが腹一杯になった。この時は実に満足の思いがしたのであった。私はブラックマ-ケットでドルをルピーに交換していたので、一ルピーは三十円ぐらいに換算される訳である。(普通のルートで交換すると一ルピーが四十五円ぐらいである。)参考のために言えぱ、こちらでいわゆる肉体労働者の賃金は一日三ルピーぐらいであると聞いた。
 とにかくこういう安ホテルに荷物を置いて、例によって散歩に出がけた。〈タージマハールはどこかな〉などと、頭の片隅で思いながらぷらぷらと歩いて一日目が暮れた。次の日になって、人に聞いたのだか何であったか、とにかく夕ージマハールはかなり離れた所にあると分かって、もう行くのが面倒臭くなってしまった。その日は、近くの城の様な建物の中をぷらぷらして、日が暮れた。そして次の日にはもうアグラを立ってしまった。こうして私は、ついに秀麗なる夕ージマハールにお目にかがらなかったのである。

4

 十九世紀の後半、インドのベンガル地方に現われた偉大なる魂、スリ・ラーマクリシュナ。彼の偉大さについて私は語る言葉を持たない。ただ言えることは、彼はブッダの様な、あるいはキリストの様なクラスの人であったという事である。また言える事は、彼がいなかったら、私がインドをこの様に愛することはなかったのではないか、と思うことである。
 このラーマクリシュナの修行時代に一人の師がいた。彼は世を捨てた遍歴の僧であった。着ている物は腰布一枚、裸の男トタプリであった。彼がラーマクリシュナに伝授したものは、絶対不二一元の奥義であった。彼はラーマクリシュナを一目見るなり、これは私が教えるべき人物であると直感した。彼が四十年かけて会得したものを、ラーマクリシュナはわずか一日で会得した。ラーマクリシュナに教えるべき事をすべて教え、またこの男もラーマクリシュナに多くの事を学んだ。こういう訳で、この男のラーマクリシュナの所での滞在は十一か月に及んだ。これはこの男にとっては全く異例の事であった。なぜなら、この男は一つの場所に三日といない、という事を信条としていたからであった。しかし、この男も自分のつとめを果たし終えると、再び自分の道としてインドのど.こかへと姿を消したのであった。
 またこういう話がある。ラーマクリシュナの住む寺院の食物布施所に、ある時汚い乞食がやって来て食を乞うた。あまり汚いので寺男が追い払うと、その男は、そばのごみ捨て場で犬といっしょになって食物をあさって、旨そうに食って去って行こうとした。ラーマクリシュナは、その男を見て寺男に言った、「ああいう人物こそが本当の大覚者なのだよ」と。寺男はあわててその男を追いかけて、ぜひ教えて下さいと頼んだが、その男は逃げるように去って行った。なおも寺男がしつこく後について行くので、その男はしかたなく一つの事を寺男に言った。「ここにどぷ川が流れている。このどぷ川が聖なるガンガと同じように見える時、君は悟ったのだよ」と。なおも寺男は聞こうとしたが、その男は近くにころがっていたレンガの破片を投げつけて逃げ去った。
 私はインドで誰かに会うという目的を持っていなかったが、このような男に会えるのではないか、という期待を持っていた。この世のすべての現象を非実在のものであるとして横目で見ながら、最高の実在に思いのすべてを向けているような人物にである。絶対不二一元論者は宣言する、「この世の実相はブラーフマンと呼ばれる唯一不可分の実体である。この小さな自我が経験する、快・不快、幸・不幸、喜・悲、生・死、等々はマーヤー(幻影)と呼ばれ、実在ではない」と。このような思いを自らの内に満たして光り輝きながら歩いている人物にである。結果を言えぱ、私はそのような人物には会わなかった。それらしき風体の男には無数に会ったが、光り輝くという風ではなかった。

5

 具体的に私はインドでどのように時を過ごしたか。先にも述べたように、ある所に着くと先ずインド式の安ホテルか、あるいはツーリストホテルという主に外国人旅行者用の大部屋のベッドを借りた。またダラムサラという巡礼者用の宿を利用したこともあった。そして特に長く滞在したいと思った時は、部屋を借りた。こうして自分の拠点が定まると、日中はほとんどぷらぷらと散歩に出かけた。
 インドでは大都市を除いては自動車が少なく、散歩するのも気持ちが良かった。しばらく歩いては、よく露店の茶店で紅茶を飲んだ。ミルクたっぷりの紅茶が十パイサから二十パイサ、三円から六円である。暑い時にはヨーグルトで作ったラシという旨いものを飲んだ。道端の椅子にすわって茶を飲みながら、インドの空気を吸い、インドの空を眺めた。〈道には牛が寝そべっている。道端には大きな樹が風に葉をゆすっている。空には大きな鳥が滑空している。女はサリーという優雅な着物で、男もゆったりとした服装で、のんぴりと歩いている。〉インドの道はある場所からある場所への単なる通路ではなかった。インドの道には人生の、あるいは生命のドラマがあった。犬や豚や牛や小鳥や人や人力車が共存していた。だれも他を排斥しなかったし、変にべたべたと寄りそってもいなかった。みんながそれぞれ自分の役を黙々と演じていた。余談であるが、私が日本へ帰ってきて、先ず最初に感じたのは、日本の道のことである。人々は実にいそがしく地点から地点へと直行していた。さあ私もあわを食った。この国では道程を楽しんだりしていてはいけないのだ。そういう感じで、私もタクシーと電車とパスで、とにかく落ち着く所まで直行したのであった。
 話をインドに戻そう。こういうふうに私は、日中は思う存分インドの空気を呼吸した。日が暮れて宿に帰ると、寝るまでの時間私は読書をした。私は英語力はなかったが、長い時間たった一人でいて、手近に英文の本しかないとなると、かなり読めてしまうものである。私がインドで読んだ本は、パタンジャリのヨガスートラ、マハーバーラタのダイジェスト版、ラーマーヤナのダイジェスト版、ラーマクリシュナの福音、ミラレパの生涯、といったところである。このようにだいたいの私のインドでの生活の基調は、昼はぷらぷら、夜は読書といった具合であった。
 瞑想の類はやらなかったがというと、そうでもなかった。最初のうちは、ヨガ・スートラに基づいてラージャヨガを少しやったが、どうしても奥へ入っていけず途中で止めた。また私はクリシュナ神が好きだったので、彼を瞑想の対象に選んでよく唱名した。しかし、これにも私は徹しきれなかった。また、瞑想というのではないが、私はよく歌を歌った。本など読んでいて感動した部分があると、それに節をつけて歌った。とくにラーマクリシュナの福音の中にある信仰の歌が好きであった。また、途中でディルルバというインドの弦楽器を買って持って歩いていたので、よく自己流に演奏しては喜んでいた。
 音楽といえば、すばらしい経験が二つほどあった。一つはカルカッタでアリ・アクバル・力ーンのサロッドの演奏を聴いた時である。この演奏会はラーマクリ.シュナ協会への賛助演奏会であったためか、協会の坊さん達が多数来ていた。舞台には香がたかれて、いよいよアリ・アクバル・力ーンとその弟子の太鼓たたきの登場で合った。私は彼らに太古のガンダルヴァ(音楽をよくする神々の種族)違の面影を心の中でダブらせてぞくぞくした。演奏は背後で奏されているタンブーラの音に乗って静かに始まった。インド音楽は一定の形式を持ってはいるものの、ほとんどその場での演奏者の即興である。一曲めは我々を太古の森の中に引き込むような、静がな深い響きの音楽であった。二曲目が始まった。今度は太鼓も加わって生き生きとしたかけ合いが行われた。サロッド奏者も太鼓たたきも曲に合わせて体を揺すった。曲がだれそうになるとアリ・アクパル・力ーンは歯切れのよい旋律で曲をひきしめ、太鼓奏者がどんどん先に行ってしまうと、アリ・アクパル・カーンはそれを引き戻すように粘っこ落ちついた旋律を奏でた。こうして師と弟子とはまるで話をするように音楽を作り上げていったのであった。
 その時一つの思いがけない出来事が起こった。サロッドの主要弦が一本切れてしまったのである。(西洋音楽の場合なら音楽はここで中断である。)さて、アリ・アクパル・カーンはどうしたか、音楽はどうなったか。そのまま進行したのである。アリ・アクバル・カーンは全くあわてなかった。もう一人の弟子が出て来て、サ□ツドの切れた弦を張り替えるのを手伝った。(音楽は中断していない。)アリ・アクバル・カーンは弦を張り替えながら、調弦しながら全く音楽の流れを中断しなかったのである。さて、いよいよ曲も最期の正念場に来た。師と弟子、サロッド奏者とタブラ(太鼓)奏者との間は、糸でつながれているように音でつながれていた。彼らの心は音というものを媒介にして、完全に一つに溶け合っているように見えた。〈さあ、もう何も恐れる事はない、この宇宙は音楽である、この音楽が宇宙である、その最期の絶対的相をここに示そう。〉曲はこうして、その選んだラーガ(音階)選んだ夕ーラ(リズム)を越えて、絶対的な音を示すかのようにして終わった。師と弟子と彼らを背後で支えていた女のタンブーラ奏者は静かに立ち上がり、合掌をして、舞台を去って行ったのであった。
 これが一つめの経験である。二番目の経験もここに書こうがと思ったが、それは私自身の演奏経験で、私自身にとっては先の経験に優るとも劣らない経験なのであるが、読者にある誤解を与え、アリ・アクバル・力ーンの音楽がつまらな,いものに見られてしまう危険があるので、ここで肩を並べて書くのは差し控えて、後の方で書きたいと思う。
 まあこのように思い出して行くと、いろいろの経験が思い出されるが、やはり大方の時間をぷらぷらと過ごしながら、あの声を待っていた。〈私はこれからの人生をどのように生きれば良いのか、あるいはどのように終われば良いのか。〉

6

 昔インドでは、人はその一生をどのように過ごせばよいのがということにつき一つの規範があった。まず人はその青年期に於いて、完全に純潔を保ちながら聖典(ヴェーダ)を学ぴ、人生についての、存在についての意味を学ぱねばならなかった。いわゆる学生の時代である。その次が家住者の時代である。ここで人は妻を持ち子を産みそれを養い、杜会のために働き、家族に財産をさなければならなかった。その次にやってくるのが隠居の時代である。ここで人は、自分の仕事を若い人に引き継ぎ、妻と共に森や山の中に隠棲し、わずかな木の実や草の根を食べながら、神のこと、真理のことを瞑想しなければならなかった。そして更に四番目の時代として放浪の時代がある。ここで人は、伴侶とも別れ、ただ一人托鉢しながら全身で神のことを思いながら歩き、その神への思いの内に死んでゆくのである。また例外として、学生の時代にあっても、その他の時代にあっても、人は義務に反しない限り、すぐさま四番目の時代である放浪生活に飛び込むことができた。このような人をサンニャーシンと言って、人々は尊敬の念を持って戸口に迎えた。昔のインドでは、このような出家者、放浪僧に食を供することを尊敬の念を持って行った。インドでは一般的に、人に物を与える時、相手をさげすんだり哀れんだりすることは悪徳であるとされている。少し余談になるが、現在インドにラーマクリシュナミッションという僧の団体がある。この団体は、ラーマクリシュナの教えを世に伝えるという仕事の他に、飢饉の時など、その奉仕活動に活躍しているのであるが、ある時そこの僧院長が言ったそうである、「この飢謹に打ちのめされた貧しい人々、我々はこの人たちを我々の神だと思って、奉仕させてもらっているのである」と。
 こういう訳で、インドにおいては、たった一人で神のこと、真理のことのみを思いながら、生涯を送るということも可能なことなのである。
 インドに行く前に私は日本でいわゆる無銭旅行をしていた事がある。日本での私の旅をインドのサンニャーシンのそれと比べてみると、まず気候の点からいって野宿ができにくいことがある。夏はできるが冬は無理である。このことでまず民家にたよらなければならない(日本の寺は民家と同じである)のであるが、これが実に煩わしい。大体断られるのである。また中には親切な人がいて宿をしてくれることもあるが、どうして旅をしているかを、それぞれの相手に合わせて説明しなけれぽならない。これが実に面倒なのである。また駅などに泊まろうとおもっても、すぐに警官などがやってきて不審尋問を開始するので、これまた落ち着けない。(もっとも彼は職務に忠実なだけなのだが。)インドに於いては駅は泊まる場所なのである。あらゆる旅行者が駅に泊まる。なかには飯を炊いて食事をするものさえある。またインドでは、わずかばかりの寝具を持っていれば、戸外に寝るのも実に気持ちのよいことなのである。
 次にどのように食物を得るかということである。インドの托鉢僧は、人家や、店の前に立って黙ってぬっと器を差し出す。差し出された方も心得ていて、手近にある食物などを少量その中に入れる。何もないときは、ないと手まねする。こうして何軒かを回れば、その日の糧が手に入るのである。インドの托鉢僧は大概一つの金属器を持っていて、これで洗面の用もたせば煮炊きもする。こうして一人静かな所で食事ができる訳である。これは私が見聞した一つの場合であるが、昔のようにもっとうやうやしく食物を捧げる場面もあることであろう。
 さて日本の場合はどうであるが、日本で物を乞うということは、なんと精神の疲れることであろうか。こんなに物のあふれている国でありながら、一人の旅人が托鉢をするというのはなんと情けない事なのであろうか。でも考えてみれば仕様がない。インドの方が特別なのである。とにもかくにも、一人の旅人に対する周りの環境は、日本とインドではこのように違っていた。(ここで一人の旅人というのは、日本では私、インドでは托鉢僧《サンニャーシン》のある一人を例にとったのである。)もちろん私はインドでは金を持っていたが、常にインドのサンニャーシンのことを頭に置いていた。そして、いつか自分もインドであのようにしなければならないのではないか、という恐れもあったのである。(日本ではインドのザンニ.ヤーシンのような生き方はできないと解っていたから。)日本に帰るには、これ以外の生き方をはっきりとつかんで帰らなければならなかった。〈日本に帰りたい。〉しかし帰る訳にはいかなかった。まだなにもつかんでいなかったから。

7

 私は小さい時から、〈私はこれが好きだ〉と言えるものがなかった。〈他の人がどうであれ私はこれが好きだ〉と言えるものがなかったように思う。私は物事の好き嫌いの基準を、周りの人物によって与えられたように思う。自分の親しい人があるものを好きだと言ったとすると、その言葉はじわじわと私の心の中に染み込んできて、いつの間にか私はそのものが好きになっていたのである。であるから私の好きなもの、それは多分以前にある人の感化によって好きになっていたのであるが、そのものを新しく出会って親しくなった人が嫌いだと言ったとすると、私にはそのことが悩みの種になった。そのことが私の精神を少し分裂させた。そして私は私の心の中で、そのどちらをも認めるような方法で解決をはかった。このことは好き嫌いという事だけでなく、善悪とか美醜とかの事柄についても同様であったように思う。そして私の付き合う人の範囲が広がれぱ広がるほど、私の分裂の度合いも大きなものになっていった。そして私は自分の心の中で、いかにそれらの人々の考え方の矛盾を止揚しようかと努力したのであった。それらが止揚され私の心が分裂していないとき、私はこの世界が完全なものに思えて、実に堂々とした気分で過ごせた。しかし全く違った考え方の、しかも魅力ある人物に出会って、またもや私の心は分裂させられた。止揚、分裂、止揚、分裂、このような繰り返しが度々あったように思う。そしてインド行きの前までには、かなり多種多様な人物が私の心の中を占めた。しかもそれらの人物が、私には捨て切れない親しさでもって話しかけてきたので、私には彼らの考え方の違いを止揚する事もできなかったし、どちらかの考え方を捨て去る事もできなかった。
 今思えばこのような私の精神には重大な欠陥があったのである。健康なる精神は〈私はこのように生きたい〉と思うのである。そして彼の生き方や考え方とは違う魅力ある生き方や考え方の人物に出会った時、彼は彼自信の考え方とその新たに出会った考え方との間で悩み、そして止揚するのである。そしてその止揚され広く深くなった考え方は、まさに彼自身の考え方となるのである。言い換えれば、新しい考え方に出会うことによって、彼は自分の考え方を成長させることができるのである。これが健康なる精神である。ところが私の場合はどうであったが。新しい考え方に出会うと、既に獲得されていた(?)他人の考え方との間において悩み、止揚をしたのである。つまり他人の思想と、もう一人の他人の思想との間で止揚を行い、あたかもそれが自信の思想でもあるかのように思い込んでいたのである。
 トルストイは言ったそうである〈なぜ生きるが?などという問いは無意味である。人はいかに生きるかということを考えなければならない〉と。しかし私は、さまざまの人々のさまざまの〈このように生きる〉という言葉を突き付けられて、とまどった。私は〈私はこのように生きる〉という言葉を私の心の中に見いだすことができなかった。それほど私の心の中は絡まりあってしまっていたのである。そしてついに〈私はなぜ生きるのか〉という問いを自分自身にたいして発することになったのである。しかし私はなんと素晴らしく負けず嫌いであったことか。私はこの〈なぜ生きるのか〉という陰性の問いを〈第一級の聖者は山や洞窟で一人死ぬ〉という陽性の言葉に置き換えて、インドに旅立ってきたのであった。しかし私は無意識の心の中で怖かった。なぜなら私はもともと心の奥では生きたいと思っていたのだから。ただいかに生きるかという、人生に於ける根本的な事が解らなかっただけなのだから。とにかく、あの頃の私にとって、総ての親しき人々から離れて一人になるということは必要だった。そして〈なぜ生きるのか〉という所までさかのぼり、〈いかに生きるか〉ということをひっつかんで帰って来なけれぱならなかったのである。
 ここで私の行動のある特質を簡単に述べておこう。それは同時に二つのことをするということであった。ごく些細な例では、学校時代において、数学の授業の時英語の本を見ているとか、英語の時に物理の本を見ているとかの類であった。また高校時代の受験勉強時代には私には音楽は欠かせなかった。私がこういった行動をとったのは、一つの事に自分を没頭させる自信がなかったからである。あるいはまた、自分を没頭させるに足るものを見いだせずに手近にある二つ三つのもので間に合わせていた、と言えるかもしれない。とにかくこのような行動の特質は、私のインド行きでの根本態度にもあらわれていたのである。.つまり片一方では、〈私はいかに生きるべきか〉という答を私自身の心の奥から聞きたいという願望を持っていたし、もう一方では私を魅了してくれるような、私の魂を奪ってしまってくれるようなサンニャーシンに、あるいはその他の事柄に会えるのではないか、という期待を持っていたのである。であるから私はそのどちらの願望に対しても、積極的にそれを成就しようという行動を取らなかったのである。こういう訳で、私はインドとネパール(ビザを延長する関係で入った)を、風に吹がれる木の葉のような態度でふらついたのであった。

8

 人は〈いかに生きるべきか〉という根本的な考えをどこから受け取るのであろうか。人はそれを良き伝統から受け取るのではないだろうが。インドの場合良き伝統とは何であろうか。それは明白である。ヒンズー教と呼ぱれる色彩豊かな宗教であり、ウパニシャッドの哲学に代表される深遠なる哲学であり、またヨガという方法を持つ心理学である。インドのこれらの宗教や哲学や心理学は常に次の時代の新しい精神に対して開かれていた。時代が進むにつれてこれらは新しい内容を加えて豊かになっていった。しがもその根本的な真理は全く不変不動のものなのである。リグヴェーダによってく真理は一つ、聖者たちはさまさまな名でそれを呼ぷ〉と宣言された事実が、二十世紀の今日まで証明されつづけてきただけなのである。このようなすばらしい伝統を持つインド人は、もし彼が〈人はいかに生きるべきか〉という問いを心がら発するなら、たやすく彼の国の伝統からその答を見いだすことができるに違いないのである。
 日本の場合、良き伝統とはいったい何であろうか。日本の美しき物、優れた芸術、優れた生活様式、優れた思想というものを我々が見いだした時、必ずその底に流れているものは、〈自然の哲理〉といったものではないだろうか。インドに行って気が付いたのであるが、日本の自然は美しいのである。豊かなのである。日本人はインド人のようにあのようにさまざまの神々を作り出す必要はなかった。あのように色彩豊がな神話を作り出す必要はながった。日本の自然の中にそれらはあったのである。日本人は自らを無にして自然とともにあればそれはまさしく悟りの境地だったのである。それゆえ日本に仏教が広まったというのはうなずける話なのである。
さて現代、日本は工業国である。ブルドーザーは日本の山河を破壊した。道という道はアスファルトで固められ自動車が我がもの顔に走っている。工場廃水は川や海を汚し、大気汚染は樹木を枯らし我々から清澄なる空を奪っている。さらに農薬は食物を不健康にし、化学肥料は耕地を死なせている。都会はビルと人々が密集し、百姓達もその都会に出稼ぎに来る。さらに安直に自然を求める人々の心が、奥深い山々の道までも観光用自動車道路に変えてしまう。これが現代である。このように日本人は日本人の精神が拠り所としていた自然を破壌してしまったのであり、まだ破壊しつつあるのである。さてこのような現代において我々日本人は〈いかに生きるべきか〉という問いに対する答をどのような伝統から受けとれば良いのであろうか。

9

 私はインド旅行をしている間、一つの奇妙な考えを持っていた。〈私はこの世に生まれてきた。ある生命が生まれるということは、その生命がこの世でやるべき事、あるいはやりたい事があって生まれてくるはずである。しかるに私は自分のやりたい事、あるいはやるべき事が見いだせないでいる。もしこの状態がほんとうに真実のものであるとしたら、私は間違って生まれてきたに違いない。そしてそのように私がほんとに生きたくないのであれば、ある時ふっと
呼吸するのさえ忘れてしまって、この肉体は脱落するであろう。〉という考えであった。
 私はインド旅行をしている間中、どんな小さな欲望でも注意深くそれらを見守りながら行った。そしてその欲望が〈してもしなくてもどちらでもよい〉というように感じられた時、私は必ずしないという方を選んだ。このような態度で生活してゆけば自分のうんと奥の方の基本的な欲望をみつけられると思った訳である。食事に関してもおいしい物を食べるという欲はつまらないものに思えたので、いつも最低の値段の食べ物が自分にぴったりした。また観光地を訪ねるということも同様な理由でしいて行わなかったのである。こういう選択をしながら、私はインドでやるべき事、言い換えればこの世でやるべき事を滅らしていったのである。〈こうして最後に残ったどうしてもやりたい欲望が私のほんとうの欲望である。〉
 私は不慮の事故でこうした自分の内面の観察が中断されるのを恐れた。よくインドヘ行った旅行者が泥棒にやられてスッカラカンになったという話を聞いていたので、パスポートと現金は肌身離さず首からぷらさげていた。また健康ということにも十分注意を払ったのである。私のはっきりした病気は旅行のはじめの方でした熱病のようなものだけであった。この時は自分でも苦しいというはっきりした実感があったように思う。また、旅行の後半において私はよく下痢症状をきたし体もかなり衰弱したのであったが、私にはそれが普通の意味での病気なのか、あるいはそれが私をある結果に導くために神が与えた病気なのか解らなかった。とにかくだいぷ衰弱しているな、ということは自分でも客観的事実として解っていたのであるが、私自身はそれをそんなに苦痛に感じなかったのである。私の中の肉体とは違う私が肉体の衰弱を眺めているという感じであった。ただこの時にもそれが食べたいという訳ではなかったのだが、病気になってはいけないという理由で、よく牛乳やヨーグルトを飲んだ。このように肉体はかなり衰弱していながら、心はむしろ冷静で平和であった時期に、私はビザの関係でベナレスからネパールに入らなければならなかった。私にとって〈移動する時は最低料金で移動する〉ということが一つの法であったので、体が衰弱しているにもがかわらずベナレスからネパールの力トマンズまでの旅を汽車の三等車とバスで行くことにした。そのかわり私はこの旅を非常にゆっくりと行くことにした。まず学割をとって汽車の席を予約することに一日をかけた。それから国境の町でも休憩日を一日とった、ここまでは良かったのだがその後がひどかった。(いや、私にとっては本当は良かったのである。)ネパールの国境の町からカトマンズまでバスで十数時間も立ったままでいかなければならないはめになった。しかも寒かったのである。インドを旅していた私は上に着るものをほとんど持っていなかった。おまけに寒い山道でポンコツバスが故障して数時間も動かなかったのである。人間というものはおもしろいものである。肉体がほとんど衰弱している時に頭はすごく冴えるのである。このパス旅行の最中も私の肉体はほとんど衰弱していた。ベナレスでの下痢の十数日間の後の旅に加えてこの寒さと空腹と立ちっ放しの状態である。しかし私の頭と心は非常に静かであった。単に静かであったという表現では足りない。あえて言えば寂滅という感じであったろうか。運命というものにすべてをあずけてはいるが、自分の生命さえもあずけてはいるが、そこには存在に対するたしかな愛がある。生きとし生けるものに対する限りない慈しみがある、というような静けさであった。

 私はこの静けさの中でたった一つの言葉を言った〈私は生きたい。〉

 私はうれしかった。この言葉が真実のものである、ということが解ったのである。〈いかに生きるか〉などという事はこの時は問題ではなかった。〈生きたい〉ということが真実であった、ということで十分すぎるほどうれしがったのである。そしてこのうれしさはやがて祈りに変わった。〈神よ、できうるなら私を生き延びさせてください〉

 パスはやっとのことでカトマンズについた。折りも悪く夜であった。しかも雨も降っていた。私は近くの倉庫のようなところで寝た。翌朝私はのろのろと体を引きずってツーリストホテルを見つけた。それから一週間あまり寝込み体も徐々に回復していった。とにかくこのネパール行きを境にして、私の旅はその性質が少し変わったようであった。

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 祭、それは人間が生きていく上で必要不可欠のことである。カトマンズの郊外、スワヤンブ寺院のある丘には多くのヒッピー達が民家の部屋を借りて住みついていた。私も一月程ゆっくりしようという考えで、そのあたりの民家の一部屋を借りていた。
 ある満月の夜であった、、一つの広場にたくさんのヒッピー違が集まって来た、、いろいろの楽器や甘いものや飲み物が用意され、共に満月の夜を楽しもうという訳であった。彼らの好きなマリファナタパコもそのハシシという精製された上等のものが回しのみされた。(当時のネパールでは、マリファナは違法ではなく、むしろ外貨獲得のために奨励されていた、ということである。)やがて、誰からということもなく、音楽が始まった。それは、きちんとした楽曲というのではなく、まだ未熟で未発達の、各人思い思いの音であったが、月が輝き星のまたたく夜に、互いの名もよく知らない旅人達が集まってきて共に音楽を奏でるということは、私にとって十分スリリングなことであった。私も毛布を着てこの集まりにぷらっと来ていたのであるが、もともと音楽好きの私には黙って聴いているという訳にはいがなくなり、そばにあった太鼓をたたき始めた。初めは彼らの音楽に合わせている程度であったのだが、やがて私はその音楽に物足りなさを感じ、強く私を主張し始めた。しばらくして私はそこの音楽を私の太鼓がリードしているのを感じた。すべての他の楽器の音がよく聞こえ、自分のやっていることもよく分かった。私は音楽によって自分が解放され始めたのを感じた。やがて私達は自分達のエネルギーのあらん限りを音として空問に放出した。まさにこの宇宙は音楽であった。月や星々もそれに耳を傾けているかに感じた。私達は自らの内にある音の最後の一かけらまで出しきって音楽は終わった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…...いや音楽は終わっていなかった。そこには沈黙という最高の音楽が満ちていた。この音の中にすべてが包まれていた。アメリカ人もヨーロッパ人も日本人も樹々も月も星々も大地も、すべてが一つであると感じていた。.....やがて、私は思った。〈ここでは、私達は旅人である。という一つの共通意識を持って祭りを行ない、このようにすばらしい精神の高揚を経験したのであるが、この事は私にとって一つの偶然の出来事に過ぎない。私が日本へ帰ったなら、このような祭りが必然的に行なえるような社会というものを創造してゆかなけれぱならないのではないか。〉・・・・・・・・・・・・・・・…。.やがて私は立ち上がり、アメリカ人やヨーロッパ人という姿の神々に、心の中で礼をして静かにその場を離れた。私は帰り道でずいぷんと自分が酩酊しているのを感じた。私は存在という美酒に酩酊していたのである。私は一瞬自分がどこを歩いているか分からなかった。なぜなら、この私という存在も、それが歩いている道も全く一つの同質の存在物のように見えていたからである。それでも私は意志の力で自分の借りている部屋までたどりついた。そうである、私はこの時すでに〈私は生きたい〉という意思をはっきりと自分のものにしていたのである。

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 もう私は私のインド旅行について書くことは何もない。私は自分の無意識の内にあった〈私は生きたい〉という欲望を意識の上に呼び出した。これが私がインド旅行で得た果実であった。私は〈私は生きたい〉という自覚を得た後も約二が月位の間インド及びネパールにいたのであったが。この間に私は私のこの欲望、あるいはこの意思を私の中で確実なものにし、絶対に忘れてはならぬものにしなくてはならないと考え、早く日本に帰りたいという気持ちを抑えていたのであった。ただこの期間で印象的なことが一つあった。しばらくネパールにいた後にインドに戻った時、やはりインドは神の現われの大きな国であるなあ、という実感を持った。それはどういう具体的な事柄がらの印象であったのかよく分らないのであるが、そこに流れている空気自体が非常に重厚で霊的な光に満ちていたようであった。ネパールで会った知人が、ネパールの神様はインドの神様に比べると汚い。」と言った。インドでもネパールでも、少し道を歩くと道端にいろいろな神様が祀られているのが見られるのだが、ネパールの場合、その周りがあまりきれいではなく、インドのそれは人々が心を込めて掃除をしている、という意味であった。またインドでは(ネパールでもそうであるが)そういう祀られている神像は、日々人々によって信仰され、いつも花が捧げられ、白檀の粉で彩られていた。日本の神杜仏閣にある御本尊のように忘れられた存在ではなく、いつも人々と共に呼吸し生きているのであった。たぷんこういうような些細な事柄が積み重なって、インドの空気を非常に濃密なものにしていたのかもしれない。とにかくネパールから再びインドに入った時、私は改めてインドの偉大さをこの皮膚に感じとり感動した。私は思った〈私は日本に帰る。そして再びこの生涯に於いてインドにやって来ることはできないかもしれないが、私はけっしてインドを忘れないだろう。〉私はインドの滞在の最後の日々をベナレスで過ごした。私はインドを愛していた。それはあこがれや尊敬の念ではなかった。悪いものもたくさんあった。良いものもたくさんあった。私はそれらすべてを愛していた。
 しかし私は、私の伴侶は日本であるということを感じていた。なぜなら日本には、私が生きていくという上で一つの場があると思ったからである。〈いかに生きていくか〉ということの具体的なことは全然分らなかったが、私には日本という伴侶自らが私にこの答えを示してくれるように思われてきていたのである。私が〈生きたい〉と思った瞬間から、〈いかに生きてゆくか〉という問いは、私の心の中で問題にならなくなっていたのである。
このように私はインド旅行で〈いかに生きるか〉という間いに対しての答えを得ることはできなかったが、この問いが問題にならないくらいの一つの確信を縛た。〈私は生きたいのである。〉〈どのように生きるがということは、これからの人生の道程で自ずから私に示されるであろう。〉このような確信を持って私はインドから日本へ帰って来たのである。

一九七七年二月